2009/08/04(火)常に手ぶら

2009/08/05 21:41 考察
ちょっと古いひろゆきさんのインタビューなんですが、
「いや、能力と言うよりは「余裕があるかどうか」が大きいのではないかな。例えば、ものすごく忙しい最中、隣に100万円が落ちていても別に気がつかないでしょう。僕はそういう忙殺される状況を作っていないので、何かチャンスがあるとすぐに掴める状態にあるんですよ。そういう意味では、チャンスをものにしているという気はしますね。」
東京プラス社長 西村博之氏インタビュー - GREEキャリア
これ大事だなーと思います。
自分が独立したことにも絡みますが、将来訪れるかもしれない価値あるなにかをキャッチするために、今手ぶらであっておく、というのは大切だと思います。

自分が誰かに何か頼む場合を考えてみても、会社員の方は平日昼間は空いてないから、なにかできるとしても夜か土日だけですよね。そうするとやっぱり声をかけづらい。自分の時間の大半を埋めてしまっているということが結果的に可能性を閉じてることになるなーと感じたんです。
もちろん会社の仕事でもなんでも、おもしろいところを見つけて全力でコミットできているなら幸せですが、そうとも思えないもののために別の可能性を閉じるのはもったいないな、と思います。

諸葛孔明も質素で目立たない暮らししてたそうで。あれも自分の可能性を閉じないためでしょう。中途半端なところに嵌っていたらこんな歴史上の人物にはなってなかったかもしれません。

2007/06/01(金)本当にそれは「してはいけないこと」なのか

2007/06/01 21:50 考察
この記事。

梅田望夫氏が言うように、好きなことを貫いて仕事にしていくためにはどのようにすればよいのか
http://blog.livedoor.jp/lalha/archives/50167531.html

交換不可能云々にはあまり同意しないけれど、2番目の「してはいけないこと」にえらく共感しました。
好きなことを貫いている人の多くは、これらの「してはいけない」ことをよく破ります。「してはいけない」ことを全部守っていたら、それだけで精一杯になってしまって、好きなことに時間を割くことができなくなってしまうからです。

これらの「してはいけない」ことの多くは、実際には、ある特定状況下においてのみ当てはまるものです。例えば、大企業の古風な人事担当者は転職の際の空白を気にするかもしれませんが、スタートアップの若い採用担当者の多くは、何年か空白があったところでほとんど気にしません。守らなければならないかどうかは状況次第です。

好きなことを貫いている人の多くは、「してはいけない」ことをあるところで破り、そこで浮いた時間を好きなことに費やしています。そして自分の交換不可能な能力にどんどん磨きをかけています。
この、「「してはいけない」(とされている)ことをあるところで破る」というのはとても重要だと思います。
というか、会社組織の中で愚痴が多かったりくすぶっていたりしている人って、会社のルールとかまわりの常識とか上司の言うこととかを気にしすぎてるように思える。
なんというか、勝手にいろんなものに縛られて勝手に閉塞しているように見えるんですよ。
仕事場で上司に気を使いまくった挙句に愚痴ってる人とかいるけど、そんなこと上司ももちろん、誰も頼んでないと思うんだよなあ。

もちろんルールや常識を破ることでペナルティが来ることもあるわけで、それは自分の責任で受け止めなきゃいかんのですけど、「そうなったらそれはそれで仕方ない。」という割り切りというか思い切りみたいなものを身につけた上で、適当にルールや常識を打破していくってのは重要ですよ。
そう考えるだけでいろんなことがずいぶん楽になると思うんですけどね。
まあ、それもやりたいことを実現するためであって、怠けたいがためにルールを破ってしまうと惰性してしまいますが。

こちらの方も、こうしたらいい!ということをぜひやって解放感を得てくれればと思います。
http://anond.hatelabo.jp/20070529230957

2006/09/23(土)二千円札を見なくなった。

2006/09/23 17:11 考察
最近二千円札を見てない。
もともとレアな存在ですが、最近さっぱり。
ひそかに回収が進められていたりするんですかね。

今まで日本では「2」のお金が無かったので、「二千円札ができる」と聞いたときは、なんとなく「新しい文化」の香りを感じて結構素直に面白そうだと思ったんですが世間では最初からずいぶんと酷評されてました。

まあ、二千円札は自動販売機に入らないし、ATMにも券売機にも都合が悪い。システムサイドから見ればいまさら受け入れがたい存在なのは確か。さらに携帯でmobile Suicaだとかネットで使える電子マネーみたいなものが普及していけば、ますます硬貨・紙幣は必要なくなっていくし、電子データであればどんな端数でも自在にやり取りできるわけで、そんな時代迎えようというときに「2」という新しい「区切り」をわざわざ作るというのは無意味といえば無意味。

でもそれもなんだか味気ないものだなあと思ってしまう。
いままで「2」が無かったということ自体が日本の文化のひとつの表れだと思うし、自分たちの国が育んだ偉大な文化人を紙幣に刷ったり、革命を起こしたヒーローの顔を硬貨に刻む、というのも「国の文化」だと思うのですが、そういうものが電子化によって徐々に失われていくのかな。
最近はWebでグローバリゼーションだとかフラット化する世界だとか国境は関係ないとかネットの上で日本人であるとはどういうことかとかいろいろ言われていますが、こんなところからも国ベースのアイデンティティが失われつつあるように感じました。

二千円札はもう少し前の時代であれば受け入れられたんじゃないかと思います。地域の商店街が活きている頃の人の手によるやり取りであれば二千円が入り込む余地もあったのでは。
そう考えると小渕さんの二千円札てのは「システム化」に対する一つの挑戦であったようにも思えてくる。
で、その結果はというとこの有様で。
なんとなく社会がWebを絡めた巨大なシステムに飲み込まれていくことを象徴しているように思いました。

ところでなんで日本には「2」のお金が無かったんでしょうか。「日本人は割り切ってしまうことを嫌うので奇数が好き」、なんてよく言われますがそれが関係してるんですかね。