2009/11/16(月)twitterの可能性
2009/11/16 19:43
私自身はtwitterをあまり楽しいとも思えなかったのだけど、最初にやったときの感覚は「パーティ会場みたいだ」というもの。多くの人が一同に会し、好き勝手に会話を楽しんでいる感じ。
RSSも流せるということなので、とりあえずつぶやくのはやめて、今ははてブとブログの更新情報を流してみている。で、このRSSとの親和性というところでtwitterの可能性に気がついた。
要は「つぶやきサービス」という形態を取ってはいるけれど、ブログ代わりにもなるし、@でチャットのように会話もでき、更新情報をキャッチするRSSリーダーでもあり、更新情報を流すPINGサーバでもあり、フォローフォロワーの人間関係を表したSNSであり、URLを投稿すればSBMになり、#を使えばスレッド式掲示板であり、そしてそのようにあらゆる使い方を包含できるとなれば、その蓄積された情報を検索することで検索エンジンにもなりうる。
しかも140文字という制約があるおかげで、好き勝手にHTMLで書かれたWebサイトよりもコンピュータで処理する場合に何かと都合がいい。そして人間にとっても短くておしゃべりのように気軽なので都合がいい。人間、コンピュータ双方にとって都合のいいこのサービスはあらゆるものを吸収していってしまう可能性を持っている。
となるとせっせとネット上の情報を集めまくっているGoogleよりも、勝手に情報が集まってくる(しかも140字で整形されている!)twitterの方があらゆる面で効率がいい。Googleを脅かす、なんて言われているのも納得。
とはいえ、みんながみんなtwitter!ということにはならないだろう。ブログとの比較で言えば、ブログの方がデザインなどを好きなように設計できるし、時間がゆっくりしているからどこか落ち着くので、訪問者に対する「おもてなし」ができるという意味ではブログの方が上になる。結果、twitterと比べるとコメントをくれた人とより親密な対話ができる。
けれど、私のように更新情報のRSSをtwitterに流してみたりと、ネット上のあらゆるサービスは何らかの形でtwitterを通ることになりそうな気がする。はじめにパーティ会場みたいと書いたが、要はtwitterは「ネットの大通り」になるのではないだろうか。すべてが流れ込んでくる場所。そういう意味ではtwitterは公共空間、ブログは自分の家。そんな使い分けが考えられる。
過去に小川浩さんあたりがfeedを中心としたビジネスを展開しようとしていたが、着眼点としては正しかったのだと思う。ネット上のあらゆるデータがfeedという形式でフォーマット化されれば、それを集約することでネットのハブになれるわけだから。しかしfeedは人間には直接なじみにくかったせいか、単にデータを処理しやすくした、という以上のものにはなれず、結局その可能性を引き継いだのがtwitterなんだと思う。
で、先日Web+DBpress Vol.53を買ったら、ポールグレアムさんがインタビュー記事でこう言っていた。
Twitterがそれほど重要な理由は、それが新しいプロトコルだからです。これは受け手を明確に指定しないメッセージングプロトコルです。新しいプロトコルというのはなかなか現れるものではありません。エンドユーザが使うものはEmail、HTTP、SMSなど、一握りしかありません。なるほどプロトコルですか。これはうまい説明だと思いました。twitterに対してなんとなく抱いていた感覚を一言で言われてしまった(笑。さすがですね。
twitterは、マーケティング方面でも盛り上がっているせいかセカンドライフと比較されたりもしますが、そんな上っ面のものではないでしょう。
今後作るサービスはtwitterを強く意識していくことになりそうです。すべてを持って行かれそうでちょっと怖いところもありますが…。
2009/10/26(月)クラウドと、人類が身の程を知る歴史
2009/10/26 16:37
Newsweek (ニューズウィーク日本版) 2009年 10/28号
特集最初の「人類をリセットクラウド革命」の項がとてもおもしろかったです。
単体の存在から相互につながる情報の共有体へというサブタイトルにはじまるこの項。印象に残った部分を抄録します。
技術の進歩による「第4の革命」が人間の定義を覆す
コペルニクス以後、それまでの地球中心の宇宙観に太陽中心の宇宙観が取って代わり、人間を宇宙の中心から追い出した。ダーウィンはすべての生物種が自然淘汰によって共通の祖先から進化してきたことを示し、人類を動物界の中心から追い出した。そしてフロイト以降、私たちは精神も無意識の産物であり、抑圧という防衛機制に影響されることを理解するようになった。なるほど人類の歴史は身の程を知る歴史とでも言えましょうか、常に自分たちが孤高の存在であることを望みながらも徐々に現実を受け入れてきたわけです。最近はあまり聞きませんがコンピュータに対する人間のすばらしさ、みたいな変にコンピューターと競おうとする物言いはよくありました。人間はコンピュータなんかより立派だ、みたいな。
つまり私たちは宇宙の中心に位置する不動の存在ではなく(コペルニクス革命)、他の動物たちと切り離された別個の存在でもなく(ダーウィン革命)、自分自身を完全に理解できる純粋な合理的精神などでは決してない(フロイト革命)。
(中略)
クラウド・コンピューティングは、この第4の革命の最も新しい現象だ。私たちは現在、コンピューターと最も相性がいい相棒はコンピューター自身だという事実を徐々に認識しつつある。コンピューターは人間を必要としない。それどころか人間は本来、コンピューターの輪の中にいるべきではない。クラウド・コンピューティングは、この輪の中から潔く出ていこうとする人間の初めての試みだ。
チェスとか将棋とかで人間とコンピューターを対戦させたりしますが、あれもコンピューターの輪に人間が意地張って座ってるイメージがあります。あんなのさっさと負けるべきなんでしょう。どっちが立派とかいうことではなくコンピュータに得意な分野はどんどん任せ、人間はその周りで人間にしかできない創造的なことをやりましょう、という至極まっとうな、適材適所の発想にようやく行き着くのだと思います。人類の自意識と現実の食い違い、という意味で地動説と対比したのはなるほどと思いましたね。
現在、大企業の時代から個人の時代へ向かってると思うのですが、これも人類の活動の中心が人の集合である企業ではなくコンピュータ(=クラウド)に置き換わり、個々人や企業はその周りで衛星のように活躍していくというイメージで考えると同じようなものかな、と思います。
で、前にあんまりネットに情報を預ける習慣がないみたいに書きましたが、最近ノートPCを持ち出して外で仕事することも増えてきたので、この記事で触発されたこともあって、ちょっと意識改革してクラウド環境に軸足を移してみることにしました。sugarsyncを本格的に使い始め、メールはGmail×IMAP×QMAIL3という環境にしました。しばらく試してみます。ちなみにこのQMAILはメールクライアントとしてはかなり軽くておすすめですよ!
2009/10/11(日)オンラインストレージにすべてを預ける?
2009/10/12 16:52
有名どころのDropboxをはじめ、zumodrive、sugarsyncなど。
事の発端は「仕事するのにオフィスはいらない」で佐々木俊尚さんがオンラインストレージをかなり本格的に活用している、と書かれていたこと。
仕事するのにオフィスはいらない
いままで、どちらかというとネットサービスに情報をむやみに預けるもんじゃない派だったので「オンラインストレージで大半のデータを管理する」という発想が全くなかったのですが、佐々木氏曰く、自分のHDDが破損したり、ノートPCやUSBメモリが盗まれたり紛失したりする確率に比べれば、頑丈で厳重に管理されたデータセンターに預けちゃう方がよっぽど安全だ、とのこと。言われてみれば確率的にはなるほどその通りでしょうね。
ただ、amazonのウィッシュリストだだ漏れやgoogleマップでの非公開情報にアクセスできちゃった件など、いろんな事件を見ているとやはりネットサービスに大事なデータを預ける、ということに対してまだ不安はあります。でも考えてみれば我々は大切な自分の財産を銀行などという第三者に預けて当然のごとく安心しきっているわけで。大事な情報だからこそネットサービスに預ける、というのは今後むしろ一般的になっていくのかもしれません。
ネット上のコメントでは、オンラインストレージには漏洩しちゃ困るものは預けないように!なんて書き込みもよく見かけました。今の段階ではもっともですが、でもこういうサービスって漏洩しちゃ困るものを預けられないようではサービスとして不完全でしょう。仕事上の重要な取引データをどこからでも引き出せてこそ、の利便性なはずです。
まだ過渡期なので、「大丈夫だよ!」なんて無責任なことは言えませんが、情報をどこで管理するのか、そろそろ意識改革が必要な時期かもしれません。
将来的には保証制度も含めたサービスもあり得ますし、こういうサービスこそ、おおざっぱな欧米人よりも絶対止めない新幹線を作り上げた日本人の出番かもしれません。
…で、さっそく昨日からsugarsyncを使っているんですが、今日、なぜかアクセスできず「パフォーマンス上げるためのメンテナンス中」との画面が…。この手のサービスをメンテ理由で止めてしまうのはかなり問題だと思うのですが、やっぱり過渡期なんでしょうね。将来の発展に期待、といったところです。
2009/10/01(木)意見と人格を切り分けるために
2009/10/01 20:16
本来的には、意見と人格は切り離せない。意見というのはその人と関係ないところから生まれてくるのではなく、生まれ、育ち、周囲の環境などさまざまなバックグラウンドがあって生成されるので、むしろ意見というのは人格の総決算ですらあるはず。なので意見を否定されれば不快になるのはむしろ当然。
しかし、切り離しておかないとうまく議論できない。だから便宜上、切り離すことにしましょう、ってことになるわけで、切り離すのが当然!ではないと思う。
じゃあ、どうするかっていう話だけど、どうも「人格を切り離せるよう冷静になって議論する術を身につけましょう」みたいな結論が多いように思う。
しかし、必要なのは「冷静さ」とか「大人な態度」とかではなく、相手との信頼関係ではないだろうか。
議論の相手が嫌味ったらしい揚げ足取りばかりしてくるような人間だった場合、またはどうにも生理的に馬が合わない人間だった場合、はたまた全く目的やビジョンが食い違っている人間だった場合、それでも「意見は意見なんだから人格と切り離して冷静に…」なんて考えて取り合ってると疲れるばっかりで何の得もない気がする。冷静さ云々の前に、尊重できる相手であると思えるからこそ、多少荒っぽい議論をして否定されまくっても「意見は意見だから」と割り切れるのではないだろうか。
そう考えると、欧米は人材の移動が激しく、ある程度議論やビジネスの相手を選べるし、いざとなれば縁も切りやすいのに比べ、日本はどっちかというと生まれた土地、入った会社から動かないまま、好き嫌いに関わらずいろんな人間と折り合いを付けていくのが一般的だったから、そんな相手を選べない状態のまま「冷静な議論」に徹すると変な冷静さ(=冷めた態度)ばっかり身についてあまり生産性はないように思う。相手を選べない状態では「意見を切り離す」よりも適当に人格を認め合って和んでおく方が物事が優位に運びやすいのではないだろうか。
もちろん欧米でも付き合う相手をそんなに自由に選べるわけではないだろうが、いざとなったら別れればいい、コイツと一生付き合わなきゃいけないわけじゃないし!っていう大陸的発想があるかないかでずいぶん違うような気がする。
なので日本人が議論上手になるためには人間の流動性が上がることも必要では。今のまま学校教育でディスカッションとか覚えてもギスギスするばかりな気がする。「意見と人格は切り分けて当然!」と「怒らない冷静さ」を身につけるよりも、否定されても納得できる相手を探して熱い議論を交わすことの方が目指すべきところじゃないかと思った。
2009/08/13(木)病と体のベクトル
2009/08/13 21:58
10年くらい前に「天寿がん」という概念を提唱している癌研の所長さん(北川知行先生)の講演を聞いた。老いてからの癌による死は老衰と変わらない、ということです。
これは80歳代後半以降の超高齢者が罹るがんについての考え方。進行癌であると診断されたが、さしたる苦痛も無くあたかも天寿を全うしたかのように亡くなったケースをそう呼ぶ。このようながん死はもはや自然死の一つとも言えるのではないか、という提言なんだって。
高度に歳を取った人のがん死は寿命と見分けがつかない
私は専門家でないので医学的根拠はないですが納得できる事象です。
これ、もしかすると癌以外にも言えるのではないでしょうか?
通常、体は「生きよう」としているわけで、そこへ病が「死」へ向かわせようとすれば逆向きのベクトルが衝突し、体と病が戦争のようになってしまいます(実際体内はミクロの戦いでしょう)。
しかし、老齢になれば体は自然と死へ向かうはずです。病も同じように体を死へ向かわせるとすれば、ある意味ベクトルが揃うわけで、病と体が足並みを揃えてゆったりと死へ向かうことができるのかもしれません。
となれば老齢者に対する延命治療というのは、せっかく揃っているベクトルに無理矢理逆のベクトルをぶつけているようなことになるわけです。わざわざ争いの種を蒔くというのでは単に苦痛を増やすだけになってしまいます。
延命治療についてはいろいろ言われていますが、個人的には安らかでいられるのが一番だと思います。もちろん、克服できれば一番いいのですが、体が向かおうとしている方向に逆らわないような見極めができるといいのではないでしょうか。
うちの父も健康法として「自分の体と相談すること」とよく言っています。死に関わるような大きな話でなくても、自分の体が何を欲しているのか、日頃から知っておくことは大切ですね。専門家の意見に頼りすぎるとかえって自分の体がわからなくなったりもするものです。
いずれにしろ記事の内容は興味深い話でした。このあたりの話が医学の分野でもっと進むことを期待します。
2009/08/09(日)ネットが促進するのはオープンな社会か閉鎖社会か
2009/08/09 22:10
例の書籍では、オープン化していく社会では日本人も欧米人のように見ず知らずの人を受け入れて信用していく方がいい、みたいな話でしたけど。それは同感で賛成なんですが、疑問もあります。
そもそも今の社会はオープン化していくんでしょうか?
まあ、昔の日本と比べれば、かなりオープンなように見えますが、しかし、ネットにより自在に情報が行き交うようになったことで世界全体が狭くなっているのも事実で、たとえ海外にいても個人の活動を検索したり追跡したりできてしまいます。
で、ここまで個人の活動が検索・追跡可能になると地球全体が所詮一個の閉鎖空間であることが浮き彫りになってしまうのではないかということです。
実際には地球上には広い広い大地が広がっているわけですが、ネットを使えば人間の意識は狭い空間にいるのと変わりないわけです。となるとこれはむしろオープンではなくて閉鎖社会に向かっているとも言えるのではないでしょうか。
日本人はネット上で匿名活動する人が多いですが、これはやはり海と山に囲まれ、やり直しがしづらい閉鎖社会で生きてきたことが影響していると思います。実名で活動してやり直しが効かなくなることへの危機感があるわけですね。一方で欧米人は実名での活動が多いと聞きます。私なんぞはつい、欧米人は実名で活動してて潔いな~なんて思ってしまうわけですが、もしかすると閉鎖社会の経験がないためにやり直しが効かなくなることへのリスク感覚が無いだけなのかもしれません。
もしネットがオープンではなくて閉鎖社会への道を促進するのであれば、そのうち欧米人も「昔ながらの、別天地に行けばいつでもやり直しが効くような感覚でネットで情報発信しちゃったけど、実名で追跡されちゃってやり直しがしづらいよ!困った!日本人みたいに匿名の方がいいぞこれは!」
なんてことになったりするかもしれません。
個人的にはオープンな社会にあこがれているので、地球全体が閉鎖社会になるというのはちょっと嫌なんですが・・・。ネットがオープンで大陸的な文化を促進するのか、それとも全体が閉鎖的で日本型の社会に行き着いてしまうのか、どっちの可能性もあるんではないかな、と思いました。
2009/08/07(金)日本の安心はなぜ消えたのか?
2009/08/07 09:02
日本の「安心」はなぜ、消えたのか―社会心理学から見た現代日本の問題点/山岸 俊男
内容としては、賛同する点がとても多いです。
本書の内容を簡単にまとめると、
日本人は集団主義的、欧米人は個人主義的と言われているが、それは日本人の本性ではなく、単に閉鎖的なムラ社会だから協力的でないと村八分にされて生きていけなくなるから、というむしろ利己的な理由による、というもの。
で、閉鎖社会では知らない人は全員疑っとけば問題ないから、人を見極める能力が育たない。逆に欧米のようなオープン社会ではいろんな見ず知らずの人を受け入れていかないと生きていけないから、人を見る目が育つ。どっちがいいとかではないけど、今のオープンな社会では欧米人のような「人を見極めて信用する力」が強いよ。ということ。
この本では具体的には書かれていなかった点だけど、この日本のムラ社会とか欧米人のオープン性とかってのは結局地理的要因によるものでしょう。要は島国な上に山が多いのでどうしても物理的に閉鎖的な空間で暮らさなければならなかった、故にムラ社会型の相互監視による安心社会ができたわけです。一方欧米はでっかい大陸ですから移動は自由。見ず知らずの人間に出会う機会も多いし、その分チャンスとリスクも多いから他人を見極める能力が育ってきたわけです。
シリコンバレー発の楽観的ベンチャー気質やサブプライムローンにみる適当っぷりもこの地理的要因によるものでしょう。広い大地の上では失敗したらまたどこか別の地でやり直せばいいわけです。逆に狭い国土の日本人は失敗したらムラの中で一生バカにされ続けるリスクがあるから何をやるにも慎重だし、その慎重さがもの作りの完璧さという長所にもつながっているんでしょう。その完璧性はサービス業だと24時間営業とか正月営業につながって過剰労働の要因になってる気もしますが。
この本でもたびたび、説教や「心の教育」などでは人の心は変えられない、環境こそが重要。と書かれていますが、まったく同意です。ついつい「心」がすべての根っこにあって、そこから人間の行動が生まれて、社会を作って・・・と考えがちですが、実際には上で述べたように結局「心」というものはその人本人が自由にコントロールできるものではなく、生まれた大地の地理や気候などの様々な関数が絡み合って算出された「結果」でしかないのではないかと思います。もちろん、その結果がさらに人を動かし・・・とサイクルしてはいるので、結果であり原因でもあるのですが、心というものをすべての元凶にして考えるのは無理があるわけで、その結果を算出した関数にも原因を求めるべきでしょう。
この辺の自然環境と文化や心のつながりはいろいろ思うところがあるのですが、それはまた別途書くとして・・・
この本で唯一気になったのは文章ですね。無理に大衆受けを狙ったような、妙に俗っぽい言い回しが目に付きました。と思ったらあとがきによると、編集との話し合いで、理論的にするだけでなく、わかりやすくするためにあえていつもと違う作り方をした、とのこと。
うーん、親しみやすさを狙ったんですかね?・・・まあ、広く売るためには正しい選択なのかもしれないけれど、特に第一章はちょっと下俗な雰囲気になっているのがもったいないです。
主張している内容についてはとってもいい本だと思います。