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これ。
10年くらい前に「天寿がん」という概念を提唱している癌研の所長さん(北川知行先生)の講演を聞いた。
これは80歳代後半以降の超高齢者が罹るがんについての考え方。進行癌であると診断されたが、さしたる苦痛も無くあたかも天寿を全うしたかのように亡くなったケースをそう呼ぶ。このようながん死はもはや自然死の一つとも言えるのではないか、という提言なんだって。
高度に歳を取った人のがん死は寿命と見分けがつかない
老いてからの癌による死は老衰と変わらない、ということです。
私は専門家でないので医学的根拠はないですが納得できる事象です。
これ、もしかすると癌以外にも言えるのではないでしょうか?
通常、体は「生きよう」としているわけで、そこへ病が「死」へ向かわせようとすれば逆向きのベクトルが衝突し、体と病が戦争のようになってしまいます(実際体内はミクロの戦いでしょう)。
しかし、老齢になれば体は自然と死へ向かうはずです。病も同じように体を死へ向かわせるとすれば、ある意味ベクトルが揃うわけで、病と体が足並みを揃えてゆったりと死へ向かうことができるのかもしれません。
となれば老齢者に対する延命治療というのは、せっかく揃っているベクトルに無理矢理逆のベクトルをぶつけているようなことになるわけです。わざわざ争いの種を蒔くというのでは単に苦痛を増やすだけになってしまいます。
延命治療についてはいろいろ言われていますが、個人的には安らかでいられるのが一番だと思います。もちろん、克服できれば一番いいのですが、体が向かおうとしている方向に逆らわないような見極めができるといいのではないでしょうか。
うちの父も健康法として「自分の体と相談すること」とよく言っています。死に関わるような大きな話でなくても、自分の体が何を欲しているのか、日頃から知っておくことは大切ですね。専門家の意見に頼りすぎるとかえって自分の体がわからなくなったりもするものです。
いずれにしろ記事の内容は興味深い話でした。このあたりの話が医学の分野でもっと進むことを期待します。
おとといの続きだけれども。
例の書籍では、オープン化していく社会では日本人も欧米人のように見ず知らずの人を受け入れて信用していく方がいい、みたいな話でしたけど。それは同感で賛成なんですが、疑問もあります。
そもそも今の社会はオープン化していくんでしょうか?
まあ、昔の日本と比べれば、かなりオープンなように見えますが、しかし、ネットにより自在に情報が行き交うようになったことで世界全体が狭くなっているのも事実で、たとえ海外にいても個人の活動を検索したり追跡したりできてしまいます。
で、ここまで個人の活動が検索・追跡可能になると地球全体が所詮一個の閉鎖空間であることが浮き彫りになってしまうのではないかということです。
実際には地球上には広い広い大地が広がっているわけですが、ネットを使えば人間の意識は狭い空間にいるのと変わりないわけです。となるとこれはむしろオープンではなくて閉鎖社会に向かっているとも言えるのではないでしょうか。
日本人はネット上で匿名活動する人が多いですが、これはやはり海と山に囲まれ、やり直しがしづらい閉鎖社会で生きてきたことが影響していると思います。実名で活動してやり直しが効かなくなることへの危機感があるわけですね。一方で欧米人は実名での活動が多いと聞きます。私なんぞはつい、欧米人は実名で活動してて潔いな~なんて思ってしまうわけですが、もしかすると閉鎖社会の経験がないためにやり直しが効かなくなることへのリスク感覚が無いだけなのかもしれません。
もしネットがオープンではなくて閉鎖社会への道を促進するのであれば、そのうち欧米人も「昔ながらの、別天地に行けばいつでもやり直しが効くような感覚でネットで情報発信しちゃったけど、実名で追跡されちゃってやり直しがしづらいよ!困った!日本人みたいに匿名の方がいいぞこれは!」
なんてことになったりするかもしれません。
個人的にはオープンな社会にあこがれているので、地球全体が閉鎖社会になるというのはちょっと嫌なんですが・・・。ネットがオープンで大陸的な文化を促進するのか、それとも全体が閉鎖的で日本型の社会に行き着いてしまうのか、どっちの可能性もあるんではないかな、と思いました。
ネットで読んで以来、気になっていた著者の本をようやく読みました。
日本の「安心」はなぜ、消えたのか―社会心理学から見た現代日本の問題点/山岸 俊男
内容としては、賛同する点がとても多いです。
本書の内容を簡単にまとめると、
日本人は集団主義的、欧米人は個人主義的と言われているが、それは日本人の本性ではなく、単に閉鎖的なムラ社会だから協力的でないと村八分にされて生きていけなくなるから、というむしろ利己的な理由による、というもの。
で、閉鎖社会では知らない人は全員疑っとけば問題ないから、人を見極める能力が育たない。逆に欧米のようなオープン社会ではいろんな見ず知らずの人を受け入れていかないと生きていけないから、人を見る目が育つ。どっちがいいとかではないけど、今のオープンな社会では欧米人のような「人を見極めて信用する力」が強いよ。ということ。
この本では具体的には書かれていなかった点だけど、この日本のムラ社会とか欧米人のオープン性とかってのは結局地理的要因によるものでしょう。要は島国な上に山が多いのでどうしても物理的に閉鎖的な空間で暮らさなければならなかった、故にムラ社会型の相互監視による安心社会ができたわけです。一方欧米はでっかい大陸ですから移動は自由。見ず知らずの人間に出会う機会も多いし、その分チャンスとリスクも多いから他人を見極める能力が育ってきたわけです。
シリコンバレー発の楽観的ベンチャー気質やサブプライムローンにみる適当っぷりもこの地理的要因によるものでしょう。広い大地の上では失敗したらまたどこか別の地でやり直せばいいわけです。逆に狭い国土の日本人は失敗したらムラの中で一生バカにされ続けるリスクがあるから何をやるにも慎重だし、その慎重さがもの作りの完璧さという長所にもつながっているんでしょう。その完璧性はサービス業だと24時間営業とか正月営業につながって過剰労働の要因になってる気もしますが。
この本でもたびたび、説教や「心の教育」などでは人の心は変えられない、環境こそが重要。と書かれていますが、まったく同意です。ついつい「心」がすべての根っこにあって、そこから人間の行動が生まれて、社会を作って・・・と考えがちですが、実際には上で述べたように結局「心」というものはその人本人が自由にコントロールできるものではなく、生まれた大地の地理や気候などの様々な関数が絡み合って算出された「結果」でしかないのではないかと思います。もちろん、その結果がさらに人を動かし・・・とサイクルしてはいるので、結果であり原因でもあるのですが、心というものをすべての元凶にして考えるのは無理があるわけで、その結果を算出した関数にも原因を求めるべきでしょう。
この辺の自然環境と文化や心のつながりはいろいろ思うところがあるのですが、それはまた別途書くとして・・・
この本で唯一気になったのは文章ですね。無理に大衆受けを狙ったような、妙に俗っぽい言い回しが目に付きました。と思ったらあとがきによると、編集との話し合いで、理論的にするだけでなく、わかりやすくするためにあえていつもと違う作り方をした、とのこと。
うーん、親しみやすさを狙ったんですかね?・・・まあ、広く売るためには正しい選択なのかもしれないけれど、特に第一章はちょっと下俗な雰囲気になっているのがもったいないです。
主張している内容についてはとってもいい本だと思います。
ちょっと古いひろゆきさんのインタビューなんですが、
「いや、能力と言うよりは「余裕があるかどうか」が大きいのではないかな。例えば、ものすごく忙しい最中、隣に100万円が落ちていても別に気がつかないでしょう。僕はそういう忙殺される状況を作っていないので、何かチャンスがあるとすぐに掴める状態にあるんですよ。そういう意味では、チャンスをものにしているという気はしますね。」
東京プラス社長 西村博之氏インタビュー - GREEキャリア
これ大事だなーと思います。
自分が独立したことにも絡みますが、将来訪れるかもしれない価値あるなにかをキャッチするために、今手ぶらであっておく、というのは大切だと思います。
自分が誰かに何か頼む場合を考えてみても、会社員の方は平日昼間は空いてないから、なにかできるとしても夜か土日だけですよね。そうするとやっぱり声をかけづらい。自分の時間の大半を埋めてしまっているということが結果的に可能性を閉じてることになるなーと感じたんです。
もちろん会社の仕事でもなんでも、おもしろいところを見つけて全力でコミットできているなら幸せですが、そうとも思えないもののために別の可能性を閉じるのはもったいないな、と思います。
諸葛孔明も質素で目立たない暮らししてたそうで。あれも自分の可能性を閉じないためでしょう。中途半端なところに嵌っていたらこんな歴史上の人物にはなってなかったかもしれません。