ネットでよく見かける「議論では意見と人格を切り分けましょう」って話。「欧米人はそれがうまいよ。日本人は下手だね」っていうやつについて、ちょっと思うところを。
本来的には、意見と人格は切り離せない。意見というのはその人と関係ないところから生まれてくるのではなく、生まれ、育ち、周囲の環境などさまざまなバックグラウンドがあって生成されるので、むしろ意見というのは人格の総決算ですらあるはず。なので意見を否定されれば不快になるのはむしろ当然。
しかし、切り離しておかないとうまく議論できない。だから便宜上、切り離すことにしましょう、ってことになるわけで、切り離すのが当然!ではないと思う。
じゃあ、どうするかっていう話だけど、どうも「人格を切り離せるよう冷静になって議論する術を身につけましょう」みたいな結論が多いように思う。
しかし、必要なのは「冷静さ」とか「大人な態度」とかではなく、相手との信頼関係ではないだろうか。
議論の相手が嫌味ったらしい揚げ足取りばかりしてくるような人間だった場合、またはどうにも生理的に馬が合わない人間だった場合、はたまた全く目的やビジョンが食い違っている人間だった場合、それでも「意見は意見なんだから人格と切り離して冷静に…」なんて考えて取り合ってると疲れるばっかりで何の得もない気がする。冷静さ云々の前に、尊重できる相手であると思えるからこそ、多少荒っぽい議論をして否定されまくっても「意見は意見だから」と割り切れるのではないだろうか。
そう考えると、欧米は人材の移動が激しく、ある程度議論やビジネスの相手を選べるし、いざとなれば縁も切りやすいのに比べ、日本はどっちかというと生まれた土地、入った会社から動かないまま、好き嫌いに関わらずいろんな人間と折り合いを付けていくのが一般的だったから、そんな相手を選べない状態のまま「冷静な議論」に徹すると変な冷静さ(=冷めた態度)ばっかり身についてあまり生産性はないように思う。相手を選べない状態では「意見を切り離す」よりも適当に人格を認め合って和んでおく方が物事が優位に運びやすいのではないだろうか。
もちろん欧米でも付き合う相手をそんなに自由に選べるわけではないだろうが、いざとなったら別れればいい、コイツと一生付き合わなきゃいけないわけじゃないし!っていう大陸的発想があるかないかでずいぶん違うような気がする。
なので日本人が議論上手になるためには人間の流動性が上がることも必要では。今のまま学校教育でディスカッションとか覚えてもギスギスするばかりな気がする。「意見と人格は切り分けて当然!」と「怒らない冷静さ」を身につけるよりも、否定されても納得できる相手を探して熱い議論を交わすことの方が目指すべきところじゃないかと思った。